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大野南淀⇔中村安伸 『虎の夜食』をめぐって

大野南淀→中村安伸

「一行で世界に対峙する心意気」などといった表現でかつて上野千鶴子は俳句というジャンルについて評したそうだ。「対峙」という言葉をわざわざ使うのは、「個人」と「世界」を対立項として捉えているからであり、もっと言えば、言語総体を作ることはできない「個人」が「世界」に向き合う際それでも言語を用いての「個人表現」を行わざるをえなく、その極度の短縮化・凝縮化が俳句に置いて問題になっている、と平石貴樹という人は論じたものだった。もちろん、平石が持ち出す「ラング」の対照項としての「パロール」にしても、その二項対立自体がポストモダンを通過して脱構築されきっている、と記憶するが、二十歳前後のポストモダン嫌いの私は「個人表現」という概念に時代錯誤的にこだわりたいと考えたものだった。ここで私はポストモダンがどうのこうの、という大きな問題を論じる気はないし、もはや私にはそのような大きすぎる包丁を携える資格はないのかもしれない、と考えている。だが、いずれにせよ、俳句というジャンルにはそうした「個人表現」なる懐かしい概念を惹起させやすいジャンルであることは間違いがないのではないかと思う。

それでは大きすぎる包丁はいったん捨てて、もっと機能的で実用的なバターナイフにでも持ち替えようと思う。「バターになった虎を育てる冷蔵庫」。中村安伸氏の『虎の夜食』である。青嶋ひろの氏によって編まれたこのテクストは、さながらヘミングウェイの『われらの時代』のように、散文(詩)と俳句(本体)が交互に配列されている。興味深いのは散文詩の冒頭が図書館の記述によって始まることである。図書館の前の樹木に生る詩集に関する叙述によって始まる散文詩パート。ここには俳句の「個人表現」が相手にする「世界」が世界中のテクストというテクストを冷酷にも抽象的に収納した「図書館」によって置換されているようである。実際、図書館は市立でも公立でもなく、生気のない権威をかかげる王立図書館である。「短日の王立書庫は池の中」。だから、『虎の夜食』とは「ラング」と「パロール」の古めかしい二項対立に自覚的な、俳句=個人表現と世界=図書館の対立が根底に据わるきわめて時代錯誤的=モダンなテクストなのである。ここで「自覚的」という形容詞を「過剰な」と言い換えてもよい。なぜならば、『虎の夜食』の俳句は、特に前半部において、「個人表現」が結局のところ「図書館」に機械的に収納されて匿名化・無化されてしまう運命に過度に過敏に反応してみせるからである。「書物の川に書物の橋や夕桜」。塚本邦雄や寺山修司のモダンさが過剰に凝縮されている、と感じる読者は私だけではないだろう。「地球儀を地球でつくる花水木」。このぶっきらぼうなモダンさ、洒脱さ。モダンさの極めつけの凝縮はかえって我々がポストモダン以降の時代に生きていることを知らせてくれる。

では、中村氏の「個人表現」の核とは何か?次にきたるクエッションへの答えは意外にも過度に正統的なものであるような気がする。それは性ではないのか。テクストの前半部においての散文詩が「世界」を言語総体の側から叙述する試みであるのならば、それに対抗する「個人表現」は性への個的固執であるかのように思われてならない。「夏来る乳房は光それとも色」。「濃姫の脚のあいだの春の水」。この婉曲的であるようながら直截的なエロティシズム!解放を求めるかのような性への希求がテクストのいたるところにちりばめられている。「秋晴れの岡本太郎のような勃起」。中村氏自身、「無意識」という語句をいささかフロイト的なニュアンスをこめて「あとがき」において使っていることからもこうしたエロティシズムは指摘されることが必然、というばかりに我々を待ち受けているのである。「その頃から私にとっての俳句は、鷹狩りの鷹のように、無意識の空間へ放つたびに、なにやら得体の知れない、しかし、確かに自分の一部であると感じさせるなにものかを、掴んで戻ってきてくれるパートナーとなりました」。かくして、我々は中村氏の俳句群の内側の内側にきわめて正統的なフロイト的性が蠢いていることを確認することになるのである。回帰するのは抑圧された性的なもの。ただし、あまりに正統的にフロイト的にすぎるがゆえに、その抑圧と回帰の構造は、きわめて「意識的」に演じられたものではないか、という疑念は明記されねばならない。というのも、俳句という極めて短小な「個人表現」の中において我々は抑圧と回帰の構造を実証的に確認するのは原理的に不可能であり、そうした実証不可能性を横目にみながら中村氏は抑圧と回帰の構造の「痕跡」をわざと俳句に埋め込んでいくからである。「初花やどろりどろりと太鼓打つ」。「父を刺せば玩具出てくる文化の日」。初花に封じ込められていたものが、血を流す父の横でどろりどろりと噴出しているようである。ただしあくまで戯画的な性の玩具として。フロイト的でありすぎるがゆえにフロイト的でないこと、そんな夢想をも想起させるこのテクストはやはり極め付きのモダンさ=時代錯誤性=現代性を刻印している。

話を戻せば、こうした「個人表現」と「図書館」の対立がテクストに安定感をもたらしていることは間違いないだろう。一歩突っ込んでいえば、性を中核として悶える「個人表現」をぐったりさせる「現実」は当初、むしろ幻想的な散文詩の側にあるように思われるのだ。我々は「図書館」の中にはりめぐされたテクストの部分としての散文詩の裏側に、裂け目の向こう側に、そんな萎縮したくすんだ「現実」をみないだろうか。「秋晴れのひと日、この軽い仏像を薄の穂に載せたまま、二人で花を摘んだり、歌をうたつたり、双六をしたり、さては遊びに飽きて日の暮れるまで抱擁したりしてすごした。月の出に野分が吹いて、仏像は西方へ飛び去った」。エロいようでエロくない。それはチラリズム的なエロスとも異なる。むしろ、エロティシズムの(抑制ではなく)消失を軽やかに夢想しているようであり、その裏側に「現実」という原則を見てもいいのではないか。だからこそ、我々は次のような力強いエロティシズムを「個人」の側に噛み締めることができる。「夏野菜めく二の腕をつかまへる」。「 聖無職うどんのやうに時を啜る」。こうして『虎の夜食』はテクストとしての構造的安定感を獲得するにいたるのだ。

しかしながら、『虎の夜食』はいったん獲得した安定感を、後半部にいたって、放棄する身振りをみせているように思われる。誇張するならば、放棄とは裏切りだ。ここが『虎の夜食』の最大の読みどころである、と私は考える。散文詩においてそれまで消失させようと努めてきたエロティシズムが堂々と顔をのぞかせるのである。「おまへが突き出した舌の上でチョコレートが溶け、陶器みたいに光つているので、感触を確かめたくなった」。中村氏が我慢しきれなかったのかもしれない。青嶋氏が我慢しきれなかったのかもしれない。『虎の夜食』が安定感に収まりきれなくなったのかもしれない。分からない。けれども、この安定感の瓦解によって「個人表現」の位相が変わってくるのが面白いところだ。「総崩れの寺引いていく花野かな」。正直なところ、この安定感のなさの中で、私がこれまで暫定的に用いてきた用語である「個人表現」「世界」「図書館」「現実」がどこに再配置されようとしているのか分からない。「現実」が俳句の側に移っているのかもしれない、とも考えた。たとえば次の機械的リアリズム。「二等辺三角関係鉄の薔薇」。けれども、私にはこの再配置の力学が分からないし、分からないままでよいのではないか、とすら諦念とともに満足させる何かがある。「漏電や蓮の上なるユーラシア」。ユーラシアはユーラシアにあるのだけれども、どこにあるのかわからない場所でもあるのだろう。私はここで答えを性急にもとめようと思わない。ここは謙虚に中村氏の言を聞いてみたいと思う。ただし、忘れてならないのは、『虎の夜食』には安定感の構築とそれを突き崩す変調の「緩急」があることであり、それこそがテクストを不気味にも艶かしくしているのだ。「緩急」は次の一句の中にも見られるだろう。「妻は風のない新幹線妻眠る」。究極のモダンさは安定と不安の綯い交ぜの中にある。

中村安伸→大野南淀

拙句集を緻密にお読みいただき、まことにありがとうございます。
これまで主に俳人や歌人からの批評では、どうしても個別の句についての評が中心であったため、全体の構成について分析してくださったのは貴重です。

自分の作品については、自分自身がいちばんよくわからないのではないかという気がします。
しかし、フロイト的な性がテーマになっているということにつきましては、ひとつにはシュールレアリズム的な方法からでてきたものかもしれません。
一方で、70年代から90年代頃の俳句作品に、西川徹郎という作者が最も典型的ですが、そのような傾向のものが多くあります。私が俳句作品を読むこと、詠むことに最も熱中した時期に強いインパクトを受けたのがそれらの作品であり、影響を受けているのは確かだろうと思います。句集のなかでもとくに露骨に性的な作品については、初期、90年代後半あたりの句に多いと思います。
もちろん「性」に対応する「死」がもうひとつの柱として置かれていなければならないわけですが、この句集よりは、近日中に刊行予定のもうひとつの句集のほうに「死」をテーマにした句が振り分けられているように思います。
そして、これは明らかに編者の青嶋の仕事ですが、いったん提示された安定感のある構造をそのまま保って一冊の書物を構成したとしたらとても退屈なものになっていたでしょうから、破壊や再配置により書物として読み飽きないものになっているとしたら、彼女の狙い通りということになると思います。
















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