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学生霊歌     村松仁淀

だれであれ
アメリカ人である
ロングフェローのように
フォレスト・ガンプの
ように走ってゆけば
大丈夫か――大丈夫なんだろうか
ついに玄関へ走りだし、戸を
蹴破って、じめついた廊下で
ふと思慮深くなったように
うつむき歩く

あれからそのまま、歩いて
ここまで来たのだった――

       *

風が川沿いの柳を揺らし
浴衣地ふくらます、夏の晩
フルーツパーラーにでも行こうや
まずは郵便局へ寄ろうか
蚊が、うるさく
色々な思い出がうるさい
歩いてきたなんてウソをつくなよ
這ってきたのだから――女の
霊のように――井戸から――
あの水は名水であり
日本は水のなかをめぐって
おれの霊も
じめついた廊下を、めぐって――
とりわけ今日みたく
じとじとと雨降る晩ならば――
井戸――井戸を開けておくれ――
聞こえてはこないか

       *

アメリカ人は
法学・医学・物理学、あらゆる
学問に通じているのか
「スプーク」と呼ばれた
青黒い人々も、いざ大学に入れば
市民なのか
おれにはとうてい信じがたい
だが
みなが信じる伝承を
みなのpresenceで疑うことは
日本の霊魂ではない、だから
おれは、信じている
難民のように
煤けた膝小僧を抱えて――水、
水をください――水を――
聞こえてはこないか

這ってでも――行かなければ
アメリカへ――
しかしながらおれたちは霊魂――
大学に入ることは、可能だろうか
聞こえてはこないかい
焦土を転げまわる学生のうめきが
おまえには聞こえていないのかい




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捕囚と鶏肉――バビロンではなく     大野南淀

アメリカ

には
アメリ
カ を 分かる
余地があるのだろうか?

八丈島に生まれた素朴な青年が石原吉郎を真似て作ってみた詩である。
いい詩である。
すごくいい詩である。
インテリはむしろ永井荷風やトクヴィルの影響をそこに認めるだろう。
だが、おれはむしろ
鶏肉を頬張る
アメリカ人の
頬の
アメリカへの
影響をそこに認めたいのである。

だが、諸君!
ペダルが逆向きに
回る。 ペダル
の上に自転車が、
革命を歌うものだろうか?(いやおれは口を開くまい)
クラリッサは 日記を
リッサという名で
つける。 消えたクラの方は、
日記の革表紙から
飛び出て 生きいている。 まったく
いつになれば就寝時間なんだろう、
くだらない話である。
牛がうんこをしている。
草からいきなり樫の木が育つだろう。

革命などに興味がないから、
おれは 生粋のベイビーである。
茶坊主になって、
そう セックス茶坊主ども
を横目に 保守的に 保守的に
ティーポットでコーヒーを作ってみた。
苦い。 クラリッサは片目を閉じる、
閉じなかった片目が
今度はリッサと鉢合わせる。
ペダルが正しい方向に、
回り始める。 実に愉快である。
クラ。 リッサ。 おやすみの呪文である。
そうでもしなければ、
明日の伐採作業で足が凍るだろう。
転がる丸太が足首を折るだろう。

D・H・ロレンスは、
アメリカ文学は子供の文学だ、
と激賞した。 心から。 すると、
アメリカ

には 煙たがられた。 それで、赤い月が出た晩にふと、
メキシコをアメリカと思うことにした。
アメリカにメキシコがなったら、
今度はアメリカが
大人になった。
これはテキサスではとても有名な話である。
簡単な話だ。
テキーラでステーキを焼けばいいのである。
そうして、草が燃える。
樫の木も燃えた。
牛のうんこは燃えず、
クラリッサは焼畑農業を学びそこなった。
コーヒーを淹れよう。
クラ。 リッサ。
長い時間がたった。
5年ぶりのあいさつにはこんな呪文がいいだろう。





いけない森   大野南淀

ここのところコーヒーが洪水のように、
駈け回るんだが、ちょこちょこと器用に眠る  
旅人も人一人立つ切り株がなかなかね。
説教に福耳を澄ませて敬えば、身長差
ほどしか熱を持たない。それなら俺がと
背を閉じて。隆起する草ありえましょうや、
 もし山中の鹿が反抗を嘶くのならば、 

乳癌の叔母を励まそうと、電話口、
幸せな旅行の思い出が宣告される。
すると叔母は今際の際に私の名。
椅子に佇む彼の前で。祈る心が強すぎれば、
信じる力が弱くなる。そんなことは、
確かにあり、いろいろあったその昔が、
 危ない森を乗り越えていつかの海へと、

そして俺は並べるのさ。
椅子を見えるように木々の切れ目に、
円形に、そして、中心の炎は、
慎ましやかなビールが燃やすだろうよ。
その脂肪のどこを突いても跳ね返りはしない
グラスはきらめき、空を本当に焦がれる。
 優しくならなきゃならない。絶えて。


夢の盂蘭盆会   村松仁淀

蓋し武門の天下を統治すること、是に至りてその盛を極むと云ふ
                                ――頼山陽『日本外史』



Ⅰ.

「……散開した農民軍の血に飢えたる鋤や鍬
義憤とは何ぞや、国家とは何ぞや、
白い鉢巻が赤く染まり、斃れた子供に
野良犬は集る――見ていたのだ、一部始終を、
士族のエートスの終焉を――」

盲目の琵琶法師はここまで唄い息を継いだ
誰かのガムを噛む、クチャクチャという音が
耳障りに響き――ぼくは――時計を見る、
昼過ぎだ、店屋物でも取ろうかしらん、ぼくは
チラリと横を見て、啜り泣く妻の姿に
気づくのだ、どうしたどうした、おい、
ハンカチが涙でぐしょ濡れだ、どうしたね、
声をかけようとしたそのとき――再び
琵琶法師は語りだす――「かえるの子は
かえる、さむらいの子はさむらいで
ありますゆえ、ただに討死とは申しましても

それなりの行儀がございます」ここは白河か、
壇ノ浦か、耳を澄ませば石臼を挽く
単調な音が続いているが――ぼくは全然
落ち着かず、寄せ木の仏像の虚ろな眼を
さっきからぼんやりと眺めている――

「……そこで雲衝く美丈夫の、栗毛の馬に
跨って、下郎が直れい、大喝し、」先ほどまで
静かに座っていた年寄り連中なのだが
それがやおら立ち上がりどよめいたものだから
こちらの腰が抜けてしまった
(年寄りというものは案外俊敏なのである)
ディス・イズ・ジャスト・ア
モダン・ロックソング、だけれどもここは
ライブハウスじゃない、場所をわきまえろ
妻の喪服に涙が乾き、それが塩の粉なんか
ふいていて――ディス・イズ・ジャスト
ア・モダン・ロックソング、場所をわきまえろ

ぼくはいったいこんな古寺で
いつから線香臭い夢のなか、いつまでも季節は
夏の盛り、汗ばんで、苛立って
いつからおまえたち――やめなさいってば――
「……かたびらの打ち当り擦れる音、重厚なる
コントラバスとチェロと地団駄、貴人は
手綱を繰って、敵陣のさなかへと
踊り込む――わっと湧き上がる喚声!民衆の
弱さを憎む声!」ぼくは、いい加減にしろ、
言ってやろうかと思ったが、ぼくは座っていた


Ⅱ.

冬――音がない
目覚めてしばらくじっとしていた
風呂に入らねばなるまいけれど
洗濯を怠ったので下着がない
ぼくの周囲からはさまざまなものが
消えていくようだ――いつの間に
貯金も底をついた――

ふわり、と体が宙に浮き――
また琵琶法師がやってくる
一の女御に追われている、ぼくが
助けてやらなくちゃ
ぼくが


Ⅲ.

「……何千万の厭味に曝され、何千万回
泣いたことでしょう、それでも私はひたむきに
端正な芸術を探し求めてまいりました」
茶を淹れてすすめても、口をつけすらせず
法師は、睨むようにして土壁の一点へ語りかけ
ベン、ベン、べベン、ベン、と琵琶が鳴るから
ぼくも切なく、もう出口なしだという気がする

ひとの心は水ものだ、あるときは義に厚く
あるときは幼子を縊り殺し、またあるときは
仏性の顕現、五蘊に華咲き――べべベン、
襖はバッと開いて、白砂松の木遠景の富士の
ティピカルな、ある意味トロピカルな――
ぼくたちは切ないが、とても偏ったどこかで
永遠にお互いの味方だから、どうか
泣かないで、どうかぼくを信じて

この霊感がエオリアの竪琴を揺らすならば
かれの技術も反旋するだろう(それが
旋律の呼称の謂れだ)不思議なことに
悲しみが、ひとを恋へと導くのである――
そしてクピド、エロース、アフロディテ、
それらの類型は異性愛を限界まで俗化し、
グロテスクな市井の営みが芸術家をポリスより
追放し、ぼくと、盲目の琵琶法師と、
ヘリコンの山に登り泉から水を汲み、さあ
行こう、獣の皮を被って
夜通し駆けるのだ
一の女御が迫っている
きみの詩はまずい
あまりにも政治的だ
今はひとまず町の灯の反対側へ
夜通し駆けて逃げるのだ、さあ、さあ、
ぼくがついている、どうかぼくを信じて

思い出のなか、警報が鳴り響く
そっちに行くなそっちに行くなそっちに行くな
よくある話だ
そしてぼくには何もかもが虚構じみている
ぼくを信じて、ぼくは無謬だから

「……何千万の死霊がすがりつき、私に
言うのです、こっちへ来いそっちに行くな、
私の気持ちは弱いので、ただ泣きただおそれ、
ただあなたを待っておりました」帰りの
新幹線は二十時三十五分、こだま六十六号
品川行、ペテンのような、インチキのような
そうした夢ならばここで終わりなさい
ぼくは命ずる、そして足の埃を払い、去る
この偽りの盂蘭盆会を、ぼくらは永遠に辞す


Ⅳ.

ディス・イズ・ジャスト・ア
モダン・ロックソング――たぶん
そうだよな、トンネルの多さに
感謝しながら、くたびれきった妻の寝顔は
まだまだね、出会ったころのあの日のまま、
まだまだモダンね、モダン焼きのモダンね、
読経しながらぼくは生きているのだぜ
窓ガラスに亡霊の手が張り付いているぜ――
気をつけろ、いつまでもぼくのそばにいろよ
ぼくはいつまでも無謬で
いつまでもずっと、きみの味方だぜ



愁嘆場   大野南淀

1.オールバック、その発生と構造

美人
というのだろうか
それとも処世とでも
いっておくべきだろうか
浚わずに
追い抜かずに
川を渡る風がある
触ってみる
スカーフがはためく

こういう時に 所詮の
間合いが難しく
欄干なんぞがのっけるには
あなただって別れたのだから
分かるでしょう、お父さん
と言ってきた口であり こちらも
そんな口に今しがたなってしまったから
それを飲むしかあるまい
走れ、所詮 二次資料も後れずにな
鬢付け油がとても匂う

そうこう詮索、宗教劇〈山格好〉
今は自分がないから
むしろないことこそ 薪能だから
告解しなくとも
ちょー人間関係ですよね
そーっすね(さすが意味付け、不衛生)
だから引きつる小屋は
自動的に
立て看板とされ
する方 される方 冗談でしかない
箆にはがされたおコゲは
馥郁とし 甚く救われていたのだから
言ってみればとってもヒューマニズムなのだ
ヒューマンではないだけで
山から来た額があって
つるっとしている

女の人を動かす自転車も絶世である
ペダルからはみ出た爪などが 劇場の
動かない背中を逆向けになでる
こちらもまた関係だ
この風はかわゆく
足場の難しい処世なのだ

2.話は逸れるが、千本桜

膝まずくと
膝が痛い
もっと丁寧に言うならば
膝蓋上包が
感じているのだね
きっと、水がいい具合に
細い糸に引かれて
そこから育っていくのだろう

そこではどのような波が風を
ございましょう
などとほざく悪源太は
掻き分けるのも所詮であるから
劇中カットに
ほうりおくのだが
ここで 一段飛ばしに ぴょんぴょん 
跳ねてくるもの
笑顔で 再会したがるもの
〈五次資料〉である
ここまで水がたまると
かえって奥ゆかしく澄むのだよ
見晴らしがよい
麓も見える

無用であった舞台では
いつかのオルガン弾きが いつまでも
転調しないエンディングテーマ
〈ヒューマンだもの〉 油断すると
意外に深い 膝蓋の孔をすり抜け
路地裏の引きずる靴音
サンダル音を通り
無形ゆえにか
安心して
形ある一次文字を見下ろそうとするのだが
そんなものには たどりつかずに
ないのだからと またもほっとし
間抜けなのね、あなた 
と声も届かず ふと
追いつかなかった そちらに
父と娘だけは
なぜだか再会しておるのであり
背中の向こうに 清潔な枝
はらはらと 互い
見遣り 
かきあげる指など要らず風にまかすのだ




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